凍える寒さの中の半袖短パン。
脳みそが蒸発しそうな炎天下。
土砂降りの中のスライディング練習。
声が小さいと言われてはダッシュ。
終わりのない海軍体操。
大好きだったサッカーだったが
毎日「今日は部活なくならねぇかな」と職員室の札を見に行った。
実際になくなったのは多分1回か2回。
結局不安になりほんとに休みか確認に行ったのを覚えている。
月曜日以外は最後の大会で都大会1回戦で負けるまで毎日サッカー漬けの中学時代。
強くなったしサッカーもそこそこできるようになった。
高校の監督にも声をかけてもらいそこに行った。
ここまで過酷なことはそれ以降の人生でない。
特筆すべきは海軍体操だ。
最後は腰が砕け、立ち上がることができなくなる。
チームメイトと繋いだ手も最後はお互い握ることもままならなくなる。
全員そうなったら終了の笛が吹かれる。
まさに地獄だった。
もともと中学にはサッカー部はなかった。
2つ上の代で全国まで行った(確か)小学校がありその代の受け口として作られたのだ。
当初顧問はいたが、指導者はおらずそれでまる2年経ってしまった。
そして自分達の代の入部と共に指導者が来た。
それが富永先生だった。
3年間みっちりサッカーを通じて教えを頂いた。
当時、有名選手が実際にプレーした各要所だけまとまったビデオテープを貸してくれた。
裏でボールをもらう動きが永遠と入ったビデオテープ。
当時ではきっと高価なものだったのだと思う。
オフザボール、スローイン、裏への動き出し・・・
何本見たか分からないが、その先のサッカーの判断のベースをそれで得れた。
たった三年間で都大会に出れるチームを作った。
体育教師だが、それまでサッカーの指導経験はない人がだ。
怒られることもたくさんあった。
あまり今では言えないがスパイクで全員頭を叩かれるってこともあった。
ハチャメチャなことをする奴らもいて連帯責任でボウスにさせられたりもした。
いい思い出だ。
卒業後は自らのチームの成績を残すことももちろん。都の選抜をヨーロッパ遠征まで連れて行くなどしたと聞いていた。また教師としても校長先生になられたと聞いていた。
結果としてそれ以降中学のサッカー部時代以上につらいことはない。
いつも「あのときの海軍体操に比べれば」と思ってしまう。
これからがどうかは分からないが、きっと私の人生の支えになってくれるはずだ。
そんな恩師が先日亡くなった。
小中の先輩から連絡をもらいお通夜に列席した。
長蛇の列が出来、多くは教員関係だと思うが教え子もちらほらいた。
列に並びながら様々なことを思い出し、祭壇に手を合わせた。
地元にあるうどん屋でお見かけした時に声をかけておけばよかったということが後悔される。
そんなことを考えながら、今の報告と御礼をした。
富永先生のご冥福をお祈り申し上げます。