新しい味に出会う
歳も40を超えてくるとお店も定番が多くなり、新規開拓の意欲が薄まってくる。しかし新しいお店、新しい味との出会いはやはり、人生においてかけがえのないものだと思う。今回は吉祥寺のタイ料理クゥーチャイを紹介。
歳も40を超えてくるとお店も定番が多くなり、新規開拓の意欲が薄まってくる。しかし新しいお店、新しい味との出会いはやはり、人生においてかけがえのないものだと思う。今回は吉祥寺のタイ料理クゥーチャイを紹介。
今回は美味しいもの馬賊(日暮里)の担々麺を紹介。
社会人2年目から23区内に住んでた。本郷、根津、千駄木と移り住んだ。
本郷に住んでいた時は毎日のようにつけ麺を食った。
大勝軒、やすべぇの系譜を継ぐ柾というつけ麺屋が自宅から徒歩30秒のところにできて毎日行った。あまりにも毎日行くものだから、最終的にサイドメニューの野菜がサービスで出てきたり、野菜ジュースを手渡されたくらい。
とにかくその麺が他にはない美味しさだった。
バイトさんを雇いその麺に陰りが出た頃引っ越してしまいその後そのお店はなくなった。
根津に引っ越してからはシャ・ノアールというビストロに通い詰めた。
ここは更に家から近く20秒ほど。
仕事が終わり、そこでご飯。
ちなみに酒は全然だめな方だから迷惑な客だったと思う。
それでも程よいお値段のワインを1~2杯でまかないの飯を出してもらい毎日食べてた。
ここは引っ越ししたが千駄木と根津をつなぐへび道沿いにまだあると思う。
都心部に住む良さの一つはまさにこのうまい飯屋が近くに点在してるということだ。
千駄木も素晴らしいお店が多かった。
少し足を伸ばして食べに行っていたのが馬賊(日暮里店)。
いつの頃からか辛いもの好きではないが、担々麺にハマった。
確か、本郷に本格四川の店があり、そこで汁なし担々麺を食べたのが始まりだったと思う。
四川担々麺はもともとは汁なしらしい。
ホワジョ(中国山椒)が効いていて本郷の店の食事を食べるととにかく口周辺が痺れるほどだった。
話を馬賊に戻す。
時々本当に食べたくなるのが馬賊の担々麺。
妻が、先日「馬賊に行きたい」と言い出した。
時間がないが短時間で都心部に久しぶりに出向くことにした。
並んでいると帰りの時間が読めなくなるので早目に出発。
ほとんど待たずに座ることが出来た。
この店の特徴は何と言っても麺。
店で常に手打ちの麺を作っていてそれが調理されて出てくる。
雰囲気はまさに中国で店先にも机と椅子を出しているようなお店。
だから、注文から出てくるまでが早い。
活況な屋台のような接客雰囲気も好き。
私は担々麺、妻は豪華に馬賊冷やし中華。通称バゾ冷や。
独特の触感で喉越しの良い麺。
小麦の旨さを感じる。
出しゃばる麺ではないが旨味が強い。
この麺をサポートするスープ。
これも強すぎない。
でも、旨味が強い。
ウリである麺の旨さを最大限に引き出すバランス。
これが馬賊の担々麺。
濃さで勝負してないのがホント素晴らしい。
バゾ冷やは麺の腰が強い。
通常の麺とは違う(のだと思う)しっかり締めてあり腰がしっかりしている。
そして、具が豪勢。
一口もらったがうまい。
熱くて遠い短時間のお出かけだったが帰りは二人で「美味しかった~」を何度も噛めしめていたらすぐに帰ってこれた。
遠いお店に出かける贅沢な食事だった。
馬賊以外にも行きたいお店がたくさんある。都心部にまた行こう。
凍える寒さの中の半袖短パン。
脳みそが蒸発しそうな炎天下。
土砂降りの中のスライディング練習。
声が小さいと言われてはダッシュ。
終わりのない海軍体操。
大好きだったサッカーだったが
毎日「今日は部活なくならねぇかな」と職員室の札を見に行った。
実際になくなったのは多分1回か2回。
結局不安になりほんとに休みか確認に行ったのを覚えている。
月曜日以外は最後の大会で都大会1回戦で負けるまで毎日サッカー漬けの中学時代。
強くなったしサッカーもそこそこできるようになった。
高校の監督にも声をかけてもらいそこに行った。
ここまで過酷なことはそれ以降の人生でない。
特筆すべきは海軍体操だ。
最後は腰が砕け、立ち上がることができなくなる。
チームメイトと繋いだ手も最後はお互い握ることもままならなくなる。
全員そうなったら終了の笛が吹かれる。
まさに地獄だった。
もともと中学にはサッカー部はなかった。
2つ上の代で全国まで行った(確か)小学校がありその代の受け口として作られたのだ。
当初顧問はいたが、指導者はおらずそれでまる2年経ってしまった。
そして自分達の代の入部と共に指導者が来た。
それが富永先生だった。
3年間みっちりサッカーを通じて教えを頂いた。
当時、有名選手が実際にプレーした各要所だけまとまったビデオテープを貸してくれた。
裏でボールをもらう動きが永遠と入ったビデオテープ。
当時ではきっと高価なものだったのだと思う。
オフザボール、スローイン、裏への動き出し・・・
何本見たか分からないが、その先のサッカーの判断のベースをそれで得れた。
たった三年間で都大会に出れるチームを作った。
体育教師だが、それまでサッカーの指導経験はない人がだ。
怒られることもたくさんあった。
あまり今では言えないがスパイクで全員頭を叩かれるってこともあった。
ハチャメチャなことをする奴らもいて連帯責任でボウスにさせられたりもした。
いい思い出だ。
卒業後は自らのチームの成績を残すことももちろん。都の選抜をヨーロッパ遠征まで連れて行くなどしたと聞いていた。また教師としても校長先生になられたと聞いていた。
結果としてそれ以降中学のサッカー部時代以上につらいことはない。
いつも「あのときの海軍体操に比べれば」と思ってしまう。
これからがどうかは分からないが、きっと私の人生の支えになってくれるはずだ。
そんな恩師が先日亡くなった。
小中の先輩から連絡をもらいお通夜に列席した。
長蛇の列が出来、多くは教員関係だと思うが教え子もちらほらいた。
列に並びながら様々なことを思い出し、祭壇に手を合わせた。
地元にあるうどん屋でお見かけした時に声をかけておけばよかったということが後悔される。
そんなことを考えながら、今の報告と御礼をした。
富永先生のご冥福をお祈り申し上げます。