馬賊(日暮里)の担々麺

都会に住む恩恵

今回は美味しいもの馬賊(日暮里)の担々麺を紹介。

社会人2年目から23区内に住んでた。本郷、根津、千駄木と移り住んだ。
本郷に住んでいた時は毎日のようにつけ麺を食った。
大勝軒、やすべぇの系譜を継ぐ柾というつけ麺屋が自宅から徒歩30秒のところにできて毎日行った。あまりにも毎日行くものだから、最終的にサイドメニューの野菜がサービスで出てきたり、野菜ジュースを手渡されたくらい。
とにかくその麺が他にはない美味しさだった。
バイトさんを雇いその麺に陰りが出た頃引っ越してしまいその後そのお店はなくなった。

根津に引っ越してからはシャ・ノアールというビストロに通い詰めた。
ここは更に家から近く20秒ほど。
仕事が終わり、そこでご飯。
ちなみに酒は全然だめな方だから迷惑な客だったと思う。
それでも程よいお値段のワインを1~2杯でまかないの飯を出してもらい毎日食べてた。
ここは引っ越ししたが千駄木と根津をつなぐへび道沿いにまだあると思う。
都心部に住む良さの一つはまさにこのうまい飯屋が近くに点在してるということだ。

担々麺

千駄木も素晴らしいお店が多かった。
少し足を伸ばして食べに行っていたのが馬賊(日暮里店)

いつの頃からか辛いもの好きではないが、担々麺にハマった。
確か、本郷に本格四川の店があり、そこで汁なし担々麺を食べたのが始まりだったと思う。
四川担々麺はもともとは汁なしらしい。
ホワジョ(中国山椒)が効いていて本郷の店の食事を食べるととにかく口周辺が痺れるほどだった。

馬賊の担々麺

話を馬賊に戻す。

時々本当に食べたくなるのが馬賊の担々麺。
妻が、先日「馬賊に行きたい」と言い出した。
時間がないが短時間で都心部に久しぶりに出向くことにした。
並んでいると帰りの時間が読めなくなるので早目に出発。
ほとんど待たずに座ることが出来た。

この店の特徴は何と言っても麺。

店で常に手打ちの麺を作っていてそれが調理されて出てくる。

雰囲気はまさに中国で店先にも机と椅子を出しているようなお店。
だから、注文から出てくるまでが早い。
活況な屋台のような接客雰囲気も好き。

私は担々麺、妻は豪華に馬賊冷やし中華。通称バゾ冷や。

独特の触感で喉越しの良い麺。
小麦の旨さを感じる。
出しゃばる麺ではないが旨味が強い。
この麺をサポートするスープ。
これも強すぎない。
でも、旨味が強い。
ウリである麺の旨さを最大限に引き出すバランス。
これが馬賊の担々麺。
濃さで勝負してないのがホント素晴らしい。

バゾ冷やは麺の腰が強い。
通常の麺とは違う(のだと思う)しっかり締めてあり腰がしっかりしている。
そして、具が豪勢。
一口もらったがうまい。

熱くて遠い短時間のお出かけだったが帰りは二人で「美味しかった~」を何度も噛めしめていたらすぐに帰ってこれた。

遠いお店に出かける贅沢な食事だった。
馬賊以外にも行きたいお店がたくさんある。都心部にまた行こう。

サッカーと人生の恩師

凍える寒さの中の半袖短パン。
脳みそが蒸発しそうな炎天下。
土砂降りの中のスライディング練習。
声が小さいと言われてはダッシュ。
終わりのない海軍体操。

大好きだったサッカーだったが
毎日「今日は部活なくならねぇかな」と職員室の札を見に行った。
実際になくなったのは多分1回か2回。
結局不安になりほんとに休みか確認に行ったのを覚えている。

月曜日以外は最後の大会で都大会1回戦で負けるまで毎日サッカー漬けの中学時代。
強くなったしサッカーもそこそこできるようになった。
高校の監督にも声をかけてもらいそこに行った。

ここまで過酷なことはそれ以降の人生でない。

特筆すべきは海軍体操だ。
最後は腰が砕け、立ち上がることができなくなる。
チームメイトと繋いだ手も最後はお互い握ることもままならなくなる。
全員そうなったら終了の笛が吹かれる。

まさに地獄だった。

もともと中学にはサッカー部はなかった。
2つ上の代で全国まで行った(確か)小学校がありその代の受け口として作られたのだ。
当初顧問はいたが、指導者はおらずそれでまる2年経ってしまった。
そして自分達の代の入部と共に指導者が来た。

それが富永先生だった。

3年間みっちりサッカーを通じて教えを頂いた。
当時、有名選手が実際にプレーした各要所だけまとまったビデオテープを貸してくれた。
裏でボールをもらう動きが永遠と入ったビデオテープ。
当時ではきっと高価なものだったのだと思う。
オフザボール、スローイン、裏への動き出し・・・
何本見たか分からないが、その先のサッカーの判断のベースをそれで得れた。
たった三年間で都大会に出れるチームを作った。
体育教師だが、それまでサッカーの指導経験はない人がだ。

怒られることもたくさんあった。
あまり今では言えないがスパイクで全員頭を叩かれるってこともあった。
ハチャメチャなことをする奴らもいて連帯責任でボウスにさせられたりもした。
いい思い出だ。

卒業後は自らのチームの成績を残すことももちろん。都の選抜をヨーロッパ遠征まで連れて行くなどしたと聞いていた。また教師としても校長先生になられたと聞いていた。

結果としてそれ以降中学のサッカー部時代以上につらいことはない。
いつも「あのときの海軍体操に比べれば」と思ってしまう。
これからがどうかは分からないが、きっと私の人生の支えになってくれるはずだ。

そんな恩師が先日亡くなった。

小中の先輩から連絡をもらいお通夜に列席した。
長蛇の列が出来、多くは教員関係だと思うが教え子もちらほらいた。
列に並びながら様々なことを思い出し、祭壇に手を合わせた。
地元にあるうどん屋でお見かけした時に声をかけておけばよかったということが後悔される。
そんなことを考えながら、今の報告と御礼をした。

富永先生のご冥福をお祈り申し上げます。

マンションDIY塗装編リビングの壁1面を塗る

マンションDIYプロローグ

購入した中古マンションをブルックリンスタイルを目指して気長にDIYしています。何かを作ること、創造すること。これらへの嗜向は遺伝していると思う。後天的なこととは思えない。小さい時から作ることが大好きだった。私の子供らも作ることが大好きだ。私の父も同じだ。後天的な嗜向というよりはDNAに練り込まれた嗜向だと思う。

〇〇が作りたいと思いつく。そのためには・・・と色々考える。イメージを膨らませ計画を詳細にする。材料を集め、設計をし着手する。出来上がりまでのイメージを更に膨らませて手を動かす。イメージが形になっていく過程そのものにアドレナリンが放出されていく。作ることがやめられなくなる。やがてイメージが眼前に形となり完成する。

私のDNAに作るという行為はかなり原始的な要素として組み込まれているのかもしれない。

中古マンションの購入

結婚してからずっと家を買おうとしていたのだけどなかなか見つからなかった。一人目の子供が生まれてようやく見つけた実家の近くの中古住宅。その契約日当日、三者間での契約書の読み合わせがはじまった時に母から携帯に電話があり実家のアパートに空きが出るということがわかり、怒られるのを承知で、売主さんに事情を話しその契約を白紙に戻してもらった。怒りを買うかと思ったが、理解のある売主さんだったのが救いだったがその時は悪いことをした。

二人目の子供が生まれ大きくなり2DKのアパートがかなり窮屈になり、どうにも家が必要になった。実家の両親と我々家族が入れ替わるという案があったがどうにも心地よくない。これまで中古の戸建てにこだわっていたのだが、少し視野を広げマンションも対象にしたら自分もよく知っているマンションの一室が売りに出ていた。すぐに会社の人に相談。内覧を入れてもらい即購入。11月に内覧して年末には引っ越しして住んでました。

DIY開始 塗装

本当は、好みにリフォームして入居というのが理想だったのだが、まぁ市場にはそんな物件は出回らない。仕組みがそうできてる。とはいえ、やっぱり好みの感じにしていきたいというのがあり、まず引越し前に内壁を塗装。

塗料はこれ。色で選択。まぁ大手の塗料だから多くは望まないけど色が好みだったので選択。

ニッペの室内用の塗料。

まずはこれを引越し前にリビングの一番大きな壁に養生して塗っていく。2/3くらい塗って塗料が足りないことに気づく。

 

すぐに追加発注。引っ越しにはなんとか間に合った。これが2019年12月の話し。ヒノキの一枚板でリビング勉強机1日で作成に続く

多摩川での鯉釣り

多摩川のにおい

シーバス釣りをはじめるきっかけになった出来事といえば古く遡ると幼少期。その時は釣りと言ったら多摩川での鯉釣りだった。自宅の最寄りのバス停からバスを2つ乗り継ぐ旅路はとても遠く感じた。父とどんな話をしたのかなどの記憶はない。鮮明に覚えているのは終点のバス停を降り、土手を登りはじめると鼻に入ってくる多摩川のにおいだった。それは川のにおいではなく紛れもなく多摩川のにおいだ。

はじめての自分の釣り道具

何歳からその釣り場に行っていたのかは定かではないが記憶があるのは小学校に上がる前だ。自分の竿とリールを買ってもらい挑んだ鯉釣り。二本継ぎの竿にセットになったリール。まさに子供用。仕掛けと餌は父のセッティング。「ちょんちょんと来た一回目のあたりでアワセたらだめだ。三回目くらいでグーッと抑え込んだらあわせるんだ」父は何度もこの教えを繰り返していた。

竿が30度くらいの角度でとまるように足元の石を組み上げる。グリップエンドの先には少し大きめの石を置いてグリップエンドを引っ掛け竿がバランスよく止まるようにする。固定してはいけない。いざという時に竿を一気に取り上げてアワセを入れるのだ。だから、あくまでグリップエンドは石に引っ掛けるようにするのが良い。とはいえ川の流れを受けたナイロンラインのテンションで竿が倒されてもいけない。絶妙なバランスを構成する。

道糸に丸形のドブ釣り用の重りを通しその先にサルカン。サルカンの逆側には二本針の段違いの仕掛け。上の針には上は少し大きめ、下には小さく丸くした練り餌をつける。小さな体で自分の体より丈のある竿を振る。餌が放り出されてポシュっと川面に波紋を作る。良いポイントに着水すれば父が「いいところだ」と言う。イマイチなところでも「そこでも大丈夫だ」と言う。

鯉の魚信

竿の穂先を見て過ごすことは嫌いじゃなかった。飽きることもあったと思うがそれで釣りがつまらないと思ったこともないし、言ったこともない。流れに押されてゆっくりと上下する穂先。時と共に色を変える風景。水面の小魚の波紋。飛んでくる鳥。そんなのを見ているとすぐに父は新しく餌をつけて打ち直している。寸分違わず同じところに打ち直すのは見ていて惚れ惚れする。私も真似て餌をつけかえて竿を振る。

何度かそれを繰り返していると父の竿にあたりが出る。当然のように釣り上げる。自分の竿に視線を戻し待つ。

ちょんちょん!

「はっ!」と思い腰を上げ竿に手をかける。一旦竿先が静かになる。父の顔を見るとまだだと伝えるように笑っている。次の瞬間、竿が一気に倒れ川面に飛んでいきそうになる。すんでのところで竿を握り無我夢中でリールを巻く。しかし、リールが巻けない。竿は折れんばかりに弧を描いている。その時テレビで見たカジキマグロとのやり取りを思い出し、見様見真似のポンピングしてリールを巻く。必死だ。しばらくするとようやっと魚が寄ってきている。笑いながら父がタモに入れる。なんとも誇らしいはじめて釣った魚。60センチは超えていた鯉はとんでもなく大きいと思った。

多摩川が注ぎ込む東京湾

多分これが私の釣りの原体験。

先日、今は当時の場所は釣りづらい河川敷になってしまっていると父が嘆いていた。父の多摩川での鯉の最高記録はメーター超えだ。今年も狙いに行くのかもしれない。そして今、私はこの多摩川が注ぎ込む東京湾奥でシーバスを年中狙っている。